2007年07月18日
石原流ノルウェイの森の読み方
時間は人生や音楽の地盤である。
†
2限目にはTOEICの英語のテストがあったんですが、
それは無事に終了し、残るは恐怖(?)の石原千秋の
教場試験だけとなりました。
現在は3限の空き時間で、草案の未完成部分を
やっていたのですが、本当にさっきプリントアウトも
終わり、完成しました。危ない、アブナイ。
ちょっと早めに教室に行って、
最終チェックしておきます。
試験終わったら石原千秋の「ノルウェイの森」の読み方の
メグの要約でも載せてみようかと思います。
拙い要約ですが、「ノルウェイの森」を1度読んだこと
ある方は、1度参照してみると、
こんな読み方もあるんだ!とか思うかもしれません。
†
『ノルウェイの森』も、村上春樹の三部作同様、一見「ホモソーシャル」の作品であるように思われる。
その根拠は、「ワタナベトオルがキズキから渡された直子をキズキのもとに返す小説である」という点にある。そして夏目漱石著の『こころ』を本歌取りにしているからである。石原千秋教授が『風の歌を聴け』同様、専門の夏目漱石に帰結させるところが流石だと感じた。
それは置いておいて、『ノルウェイの森』がホモーソシャルであるという根拠が、小説中に何箇所か登場する。具体的には、上巻P51でキズキがビリヤードで勝ったということが、男としてワタナベより強いという見せしめとなっている。勝利者のキズキがワタナベに直子をプレゼントしているのである。
さらにこれは決定的な場面であるが、下巻P204の「これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。(略)そして俺は生き続けるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。」というものである。これはキズキから直子を渡されたと自覚しているということを意味し、その責任を大人になるためにしなければならないというものである。
そして直子の自殺後であるP258の「おいキズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と僕は思った。」という描写がホモソーシャルであることを端的に表している。
しかし、『ノルウェイの森』はそれだけの物語ではない。その理由として、物語の後半部分で「直子が成熟するまでの物語」が立ち上がっているために、ホモソーシャルの構図が崩壊しているからである。
上巻P260~262の描写から分かるように、キズキがワタナベと力比べをしていたことを直子は既に理解していたし、直子は上巻P92で「これは本当に私が自分できちんと全部引き受けるべきこと」だと自覚していて、キズキとワタナベの物語に生きるのはやめて、自分の問題にするとはっきり述べているのである。
さらに直子は二十歳になった時に体も責任の取り方も大人になったために、完全な肉体をワタナベに見せつけてもいる。大人になった直子に対しワタナベは三十七歳になっても居場所がなく、成熟しきっていないのである。
ホモソーシャルの構図であるように見えて、直子は自分の決断で主体的に自殺をしたために、ワタナベは直子をキズキに返せていないのである。よって、ワタナベはただ緑を選んだというだけで、なんら責務を果たせていないのである。そのために、小説では最初から直子が死ぬことを暗示している箇所がたくさん出てくるのである。
以上の理由から、村上春樹作品が「ホモソーシャル」ではじまった物語が『ノルウェイの森』によって、その構図を女性に手渡したことを意味しているのである。
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2限目にはTOEICの英語のテストがあったんですが、
それは無事に終了し、残るは恐怖(?)の石原千秋の
教場試験だけとなりました。
現在は3限の空き時間で、草案の未完成部分を
やっていたのですが、本当にさっきプリントアウトも
終わり、完成しました。危ない、アブナイ。
ちょっと早めに教室に行って、
最終チェックしておきます。
試験終わったら石原千秋の「ノルウェイの森」の読み方の
メグの要約でも載せてみようかと思います。
拙い要約ですが、「ノルウェイの森」を1度読んだこと
ある方は、1度参照してみると、
こんな読み方もあるんだ!とか思うかもしれません。
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『ノルウェイの森』も、村上春樹の三部作同様、一見「ホモソーシャル」の作品であるように思われる。
その根拠は、「ワタナベトオルがキズキから渡された直子をキズキのもとに返す小説である」という点にある。そして夏目漱石著の『こころ』を本歌取りにしているからである。石原千秋教授が『風の歌を聴け』同様、専門の夏目漱石に帰結させるところが流石だと感じた。
それは置いておいて、『ノルウェイの森』がホモーソシャルであるという根拠が、小説中に何箇所か登場する。具体的には、上巻P51でキズキがビリヤードで勝ったということが、男としてワタナベより強いという見せしめとなっている。勝利者のキズキがワタナベに直子をプレゼントしているのである。
さらにこれは決定的な場面であるが、下巻P204の「これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。(略)そして俺は生き続けるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。」というものである。これはキズキから直子を渡されたと自覚しているということを意味し、その責任を大人になるためにしなければならないというものである。
そして直子の自殺後であるP258の「おいキズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と僕は思った。」という描写がホモソーシャルであることを端的に表している。
しかし、『ノルウェイの森』はそれだけの物語ではない。その理由として、物語の後半部分で「直子が成熟するまでの物語」が立ち上がっているために、ホモソーシャルの構図が崩壊しているからである。
上巻P260~262の描写から分かるように、キズキがワタナベと力比べをしていたことを直子は既に理解していたし、直子は上巻P92で「これは本当に私が自分できちんと全部引き受けるべきこと」だと自覚していて、キズキとワタナベの物語に生きるのはやめて、自分の問題にするとはっきり述べているのである。
さらに直子は二十歳になった時に体も責任の取り方も大人になったために、完全な肉体をワタナベに見せつけてもいる。大人になった直子に対しワタナベは三十七歳になっても居場所がなく、成熟しきっていないのである。
ホモソーシャルの構図であるように見えて、直子は自分の決断で主体的に自殺をしたために、ワタナベは直子をキズキに返せていないのである。よって、ワタナベはただ緑を選んだというだけで、なんら責務を果たせていないのである。そのために、小説では最初から直子が死ぬことを暗示している箇所がたくさん出てくるのである。
以上の理由から、村上春樹作品が「ホモソーシャル」ではじまった物語が『ノルウェイの森』によって、その構図を女性に手渡したことを意味しているのである。
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